シリーズ 「NGOの役割を再考する」

3成長が目的化する社会の危険性

 

「世界で勝って、家計が潤う」?

安倍政権は「世界で勝って、家計が潤う」というスローガンのもとに、原発などのインフラ輸出を拡大する「成長戦略」の柱を誇らしげに掲げた。

40年前に戻ったのかと錯覚するようなスローガンだ。多額の税金(ODAなど)を費やし、海外のインフラ建設を日本企業に受注させる「ばらまき外交」の復活を感じる。

いずれにしても世界で勝っても、家計が潤うのは一時的なものだろう。80年代のバブル景気がその典型的な例だ。

 

成長が目的化する危険性

そもそも、「家計を潤すこと」や「経済成長すること」自体が目的化していないだろうか。

「経済成長」すれば「何かが良くなる」という淡い期待があるようだが、何のための経済成長かが極めて曖昧だ。

高度経済成長が過去のものとなっている日本が優先すべきは、その遺産として残る東京一極集中型のシステムから脱皮して、「地域社会を潤す」ことではないか。

そして物質的な満足を越えて、失った自然や人々の繋がりを回復しながら人間性や精神的な満足度を高める新しいモデルを創りだすことだ。

 

目的と手段を勘違いする大企業

NGO(非政府組織)と企業の一番の違いは何かと聞かれることがある。

そういう場合には「NGOは社会問題の解決を目指すので、社会問題が解決すれば解散する。つまり、なくなることを目的とするもの」と答えるようにしている。

企業が何を目指すかは、経営者次第だと思うが「なくなることを目指す」という経営者はいないだろう。

東芝、三菱重工、日立などの企業を引き連れての安倍政権の原発トップセールスを見ていると、成長し続けること自体がこれらの企業の目的に見えてくる。

国内で原発の事故処理に右往左往しながら、海外では「原発は安全」との二枚舌で原発を売ろうとする。電力会社もそうだが、株主に約束した成長を目指すがゆえに、自らを正当化せざるを得なくなっている本末転倒の構図が続く。

先日、ある社長さんとお話をする機会があった。彼も「目的を見失わないこと」の重要性を唱えていた。

彼は、自分の会社のむやみな拡大を行わず、社会のニーズを満たし、社員の幸福を着実に実現していくことで悪化していた経営を立て直した。

売上偏重の「成長企業」というよりも、地域社会に愛される「成熟企業」となるという手段を通して、人や地域社会が幸福になることを目指したというわけだ。結果として、社員の「家計」も潤った。

良く言われることだが、何が「手段」で、何が「目的」かを見失ってはいけない。「成長」という「手段」に浮き足立っている今だからこそ、もう一度立ち止まる必要を痛感する。

 

創造的破壊で地域分散型へ

東京一極集中型社会の歪みがハード面でもソフト面でも限界に来ている。

海外へのインフラ輸出という一時的なお祭り騒ぎで、そのシステムを無理に維持しようとするのが、冒頭紹介した「世界で勝って、家計が潤う」という安倍政権のスローガンだろう。問題の先延ばしにすぎない。

次世代のことを考えて、一極集中型の社会を「創造的に破壊」することで地域分散型の社会を築き、社会的な豊かさの実現をゴールとすべきだ。

例えば、原発という一極集中型の電源システムを廃炉にし、地域分散型の自然エネルギーへの転換を図る。また、不要となったダムを破壊し、もとの清流にもどし、壊れていた生態系を復活させるという公共事業もあり得る。

このような事業にこそ、未来への地に足のついた可能性を感じる。

また「経済成長」自体が目的化しているニュースを聞くたびに、日々のNGO活動でも、目的を見失わないことの重要性を再認識する。NGOが社会問題の解決という目的を見失しなってはその存在意義はない。

 

「NGOの役割を再考する」は、日本のNGO(非政府組織)やNPO(非営利団体)などの市民セクター、またグリーンピースの役割について事務局長の佐藤潤一の意見をシリーズ化しているものです。

 第1回  「会社人から社会人」へのシフトを  (2013年4月3日)

 第2回 アベノミクスが破壊するもの (2013年4月22日)

 第3回 “成長”が目的化する社会の危険性 (2013年5月24日)

 第4回 「ねじれ」が嫌な方へ、「創造的対立」のすすめ (2013年7月3日)