Hiroshima1

「ピカドン(原爆)の朝、女学校で叔母は散った。その一日は、捜し歩いたお祖父ちゃんには一生だった」
これは、ある被爆2世の方が残した“コトバ”です。

オバマ大統領がG7伊勢志摩サミット後に広島を訪問すると聞いて、私は被爆した人々の“コトバ”を思い出しました。

 

祖父母の被爆体験と転機

私は現在、ヒロシマ・ナガサキで被爆された方々の被爆体験の聞き取り、そして継承することをライフワークとしています。始まりは幼少期に聞いた祖父母の被爆体験でした。

「動くものが何ものう真っ暗な世界じゃった。人が水に頭をつけて死んで、馬が仰向けになって倒れ硬直し、普段はあちこちにいた犬や猫、ハトの姿もおらんかった。
やがて人が死んだ生臭いにおいが町中に充満しおった」

とにかく怖かった。戦争/原爆というものへの恐怖感が増大したのを覚えています。しかしその後、しばらく原爆というものから目を背けていたような気がします。

転機は2013年の8月6日に参加した広島平和記念式典でした。そこで、私は被爆者の方の涙ながらの声でお話しているのを聞きました。

「あの時のことを思い出すと、かわいそうでかわいそうで・・・私が生きている間に、どうか話を聞いてください」

 自分に何ができるかわからないけど、少なくとも過去に背を向けてはいけない。その時にあの日の夏の出来事を未来につなげようという決意ができました。

 

広島にあった普通の「暮らし」

そんな思いで始めた活動ですが、被爆者のみなさんのお話を聞いているうちに、そこには確かに人々の「暮らし」があったのだということが分かってきました。

 (片山昇さん提供)

この写真は、今から90年ほど前、広島市の中島本町という場所で撮影されました。現在この場所は、オバマ大統領も訪れる広島平和記念公園になっています。後ろのイルミネーションが輝いている建物は当時の産業奨励館で、現在この建物は「原爆ドーム」と呼ばれています。

当時、広島市内に住んでいたのは35万人。人々は今と変わらず、近くに流れる川風を浴びながらビールを飲み家族みんなで団欒を楽しんでいたそうです。

 

広島市内に多く残っていたのは女性と子供、お年寄り

この写真に写っている方は、先ほどの写真と同じく、今の広島平和記念公園になっている、中島本町に暮らしていた人々です。原爆によって全員亡くなってしまいました。爆心地にいたため、3000~4000℃ともいわれる原爆から発せられた灼熱の熱線によって遺体どころか、いまだに遺骨すら見つかっていません。

Hiroshima3(片山昇さん提供)

この写真には、女性と田舎へ避難できない幼い子供しか映っていません。当時、男性の多くは兵隊にとられていたため、広島市内に残っていた約9割は女性と子供そしてお年寄りだったのです。

 原爆で、9,000人の子供たちが犠牲になったと推定されています。これは、空襲が起こったときに、家の燃え広がりを防ぐために、建物を強制的に取り壊す「建物疎開」が広島市内で行われ、今の中学校に通う年齢の子供たちはその作業に従事させられていたためです。

 これらの写真を提供してくれた片山昇さんは爆心地から1.8kmの小学校で被爆しました。原爆によって一瞬で潰れてしまった校舎から友達に引っ張り出されてようやく外に出ることができたとき、壊れた校舎からは『助けてくれー!』という声があちこちからしたそうです。しかし、耐え難い猛烈な火の手が回ってきたため友達を助けることはできませんでした。

片山さんは、亡くなった友達のお母さんに後年あったとき、こう言われたそうです。
「あの子が生きていればあなたみたいに立派になっていただろうに」

「そう言われ穴に逃げたい気分になった」と片山さんは私に話してくれました。そしてさらにこう語ってくれました。

「しばらくの間、どうして自分だけ助かったのか。友をころしちゃった。という思いが消えなかった。だからそのあとの人生で原爆に対して背を向けて抵抗するという立場がとれず逃げ回ってしまった」

Hiroshima4 (片山昇さん提供。右が片山さんご本人)

 

「兄ちゃん、遊んで」忘れられない弟の声

「兄ちゃん行ってらっしゃい!」
当時15歳だった、平田忠道さんは、8月6日の朝、母親と4歳の弟の武久ちゃんの最後の声を今でも忘れることはできないと振り返っています。

平田さんは当時、広島市内の中心にあった自宅から15㎞離れた場所で、戦争で壊れたエンジンの分解を工場でする仕事いわゆる勤労動員に従事していたそのときに、原爆が投下されました。

「太陽の光以上とも思えるピカッ!という閃光を浴び、すさまじい爆発音があった。外に出てみたら言葉では表現できないほどの猛烈な勢いで灰色がかった、入道雲以上の大きさの雲が広がっていた」

平田さんは母親と弟が心配で徒歩で廃墟となった広島市内に戻りました。
「広島市内に近づくにつれ、見たこともないような火傷をした人が逃げてくる。そんな光景が目の前に広がっていた」。平田さんはそう教えてくれました。

爆心地から2㎞しか離れていなかった自宅は全壊。
「2人はきっと生きている」——その思いで必死に自宅跡やけが人の収容所を探し回ったそうです。

 Hiroshima5

平田さんは収容所の様子を振り返ったとき「かわいそうで・・かわいそうで・・・」と言葉を詰まらせました。そこに収容されていたのは火傷した女性と、まだ幼い子供がほとんどでした。

「なんとか子供だけは」、そう思ったのでしょう。お母さんは横になっていて、幼い子供を抱きしめて離しませんでした。お母さんも火傷をしているし、子供も火傷をしている。横になっている人もいれば、座っている人もいる。ただ、じっーとしている。生きているのかもわからない状態だった。そう振り返っています。

そんな、平田さんの必死の思いも叶わず、母と弟の遺骨は1か月後、焼けた自宅あとから並んで発見されました。

「この戦争は負ける、戦争が早く終われば家族みんなで楽しく過ごせるのに・・・」
平田さんのお母さんは家の中でこう語っていたそうです。そう思う母の願いはかなえられず、お母さん、弟の武久ちゃんは原爆の犠牲になってしまいました。

「母と武久の最期を想像するだけで大変なショックだった。どんな最期だったのか・・せめて、苦しまずに最期を迎えてくれていれば」

「母をもっと楽させてあげたかった。『兄ちゃん遊んで』という武久の声をもっと聞いてやればよかった」。そう語る平田さんの“コトバ“が今も私の胸に重く響いています。

 

今もつづく原爆とのたたかい

被爆者の中には、今も『原爆のことは話したくない。』という方も沢山いらっしゃいます。
この方々も、71年が経過した今なお人には何も言えないことへの苦しみ、原爆と戦っているのだと思います。

Hiroshima6 
被爆したことへの差別(就職、結婚)、学校でのいじめ、放射線の影響を心配し子供を出産することへの不安。数限りない戦後のお話を聞いたこともあります。

 今から30年前、最高裁判所で以下のような判例が示されました。
「およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民がその生命・身体・財産などについて、その戦争によって何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは、国を挙げての戦争による『一般の犠牲』として、すべての国民がひとしく受忍しなければならない」

戦争による犠牲は受忍(がまん)せよ。というこの解釈に被爆者の方々の中では「これからも戦争を追認することになるのでは」と危惧もされています。

 

ノーモアの精神

今回のオバマ大統領の広島訪問に際して、「謝罪」というものが一つのキーワードになっています。しかし、私は被爆者の方々が求めていることはただ一つだと思います。
それは「ノーモア」という精神です。

2度と被爆者を作ってはいけない。2度と戦争による犠牲者を出してはいけない。「ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ、ノーモアウォー」その一心の思いで71年間被爆者の方々は声を挙げ続けて来たのだと思います。 

「あの戦争は狂気だった。でも、いつ殺されるかわからず怖かった。みんなが怖かったんだと思う。その恐怖が狂気に変わっていったんだ」。ある被爆者の方は伏し目がちにこう教えてくれました。

今回のオバマ大統領の広島訪問に際して、一人でも多くの被爆者の方の声・思いが世界に広がること。そして、なによりオバマ大統領をはじめ各国の為政者たちに原爆慰霊碑に書かれたこの言葉の共に未来へ歩んでもらうことを強く願います。

 

『安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから』

 Hiroshima7

 

文・写真 宮地大祐(ヒロシマ・ナガサキ原爆体験伝承者)

 

グリーンピース・ジャパン

ライターについて

グリーンピース・ジャパン
グリーンピースは、環境保護と平和を願う市民の立場で活動する国際環境NGOです。世界中の300万人以上の人々からの寄付に支えられ、企業や政府、一般の人々により良い代替策を求める活動を行っています。ぜひ私たちと一緒に、行動してください。

Comments

あなたの返答を残す