グリーンピースの誕生

記事 - 2011-09-15
ジョニ・ミッチェル、ジェームス・テイラーらが出演し、1970年、グリーンピース誕生のきっかけになったコンサートの感動エピソード。

「世界を平和に導く旅に出る一員となるのだ。」


© Greenpeace / Robert Keziere

文中の「ロックコンサート」を主催した グリーンピース副創始者 Irving Stowe 
1970年10月16日バンクーバーにて

グリーンピース初のプロジェクトのサポーターが集まったコンサート

1970年、10月16日、午後8時。
1日の終わりも近づき、日も暮れ暗くなったバンクーバーの街とは逆に、チケットを握り締めバンクーバーで一番大きなコロシアムに集まった人々には希望とアドレナリンがみなぎっていた。
当時14歳だった私は、兄と母と共に最前列に座り、その時を待っていた。

父が「ロックコンサートを開く」と言った時、ついに父はおかしくなってしまったのか、と思った
今まで一度もコンサートなんか主催したこともないし、第一、中年の父がロックスターになろうとしているなんて、恥ずかしすぎる。
しかも、地元メディアには「髭もじゃエコフリーク」なんて呼ばれる始末だ。

でも、ステージに立った父はこれまで以上に大きく、偉大に見えた。
父がその日着ていたシャツは、弁護士時代に着ていた白のシャツを私が絞り染めしたものだった。
真っ青の染料を吸ったシャツに目立つ白い模様は雲のようで、父はまるで空を着ているようだった。

「世界を平和に導く旅に出る一員になるのだ。」コロシアムに父の声が響いた。
「今日ここに集まった皆さんは、グリーンピース初のプロジェクトのサポーターだ。
アムチトカ島に船を送り、核爆弾実験を阻止しよう。
アムチトカ島だけじゃない、世界中から!」

歓声が沸きあがった。
照明の光で父から私が見えないのは分かっていたが、私は父に微笑みかけた。
14年間の人生の中でこれほど父を偉大に感じたことはなかった。

すべての始まりは69年、夏の終わり


© Greenpeace / Robert Keziere

反ベトナム戦争運動、女性人権問題、核実験、同性愛者の人権問題、60年代も終わりに近づき、革命の時代だった。
ガンディー、ローザ・パーク、マーティン・ルーサー・キングにインスパイヤーされた両親もそんな活動家の一部だった。

核爆弾実験の影響で鼓膜が破れ死んだラッコがアムチトカ島に流れ着いてるという悲しい話を耳にしたとき、ついに父が行動を起こした。
ペンを手に取り、「爆弾をやめさせろ!」と雨の中、アメリカ大使館の前で署名活動を行った。

同じ頃、ジャーナリストのボブ・ハンターは彼のコラムの中で「アメリカの核実験はロシアンルーレットだ。
はずれを引けば、世界は核爆弾によりぶっとばされる」と語っている。


© Greenpeace / Robert Keziere

1969年10月1日、父とボブは6000人の同志の先頭に立ち、アメリカ政府に実験を止めるように国境で訴えかけた。
しかし残念ながらその24時間後、アメリカ政府は1.2メガトンもある核爆弾をアムチトカ島で爆発させた。

それだけではない。
アメリカ政府は「実験は成功だった」とし、2年後に広島に落された原爆の400倍の威力を持つ爆弾をテストする計画まで発動させたのだ。

父は少数ながら有能な活動家を集め、策を練った。
そこでメンバーの一人がこう言った。

「船を出せばいいじゃない」


© Greenpeace / Robert Keziere

お金もないし、船だってない。
いや、船を操縦できる人もいない。

でも、彼らはあきらめなかった。

ミーティングも終わり、メンバーの一人、ビルが席を立った。
父はビルにピースサインをして見せた。
ビルはメンバーの中でどちらかと言えば聞き手にまわるような人だ。
しかし、その日彼はピースサインをする父に、「そのピース、環境を守るグリーンピースだね」と返事をした。

後に彼らはアムチトカ島に向かう船をグリーンピース号と名づけることになる。

アイデアとやる気だけは十分にあったものの、肝心の船を買うお金がどうしても集まらなかった
「ロックコンサートを開く」父がそんなことを口にしたのはちょうどその時だった。
誰もが成功を疑ったが、父はアーティストに協力を依頼し、事情を知った多くの人が参加を決意した


© Greenpeace / Alan Katowitz

チケット1枚3ドル、ポスターは自腹で作った。
徐々に活動は広がり、メディアを巻き込みコンサート、そしてアムチトカ島を守る反核実験運動は急速に現実味を帯びてきた。
コンサートの収益はおよそ18000ドル。
船を1隻チャーターできる金額だった。

どう考えても、小さな船で荒れ狂う北の海に向かい、核実験の中心地に向かうなんて自殺行為に等しいものがある。
もし核爆弾が爆発すれば被爆するし、小さな船は爆風に耐えられないだろう。

しかしその当時、危険を省みず誰もがその小さな船の乗組員になりたがっていたのも事実だ。
なぜなら、誰もがその船が新たな歴史の1ページになると分かっていたから

1971年9月15日 数人の乗組員を乗せたグリーンピース号はアムチトカ島に向けて出航した


© Greenpeace / Robert Keziere

しかし9月30日、出航から僅か15日後、アムチトカ島を目前にし、グリーンピース号はアメリカの沿岸警備隊により活動を阻止された。
それでも同じ目的を持ち、2年間もの準備期間を経た彼らの結束力は崩れなかった。

乗組員の逮捕の数日後、父はエッジウォーターフォーチュン号をチャーターし、荒れる海の中アムチトカ島を目指した。

1971年11月6日、賛成4、反対3の僅かな差で核実験実施が決定されると、同日の午後ニクソン大統領は、アムチトカ島で核爆弾を爆発させた
アムチトカ島に向かっていたエッジウォーターフォーチュン号は、間に合わなかった。

彼らの行動は無意味だったのだろうか

1972年、グリーンピース号とエッジウォーターフォーチュン号が帰航して3ヵ月後、アメリカ原子力委員会は「政治的、そして他の理由のため核実験を中止する。」と発表した
「他の理由」とは言うまでもなく、彼らの起こした行動と、多くの人の願いがアメリカ政府に届いたということだろう。

Barbara Stowe 2009年バンクーバーにて

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