グリーンピース・インターナショナル(本部)事務局長 
バニー・マクダーミッド

8月29日は「核実験に反対する国際デー」です。1945年以来、世界の60カ所以上で2,000回を超える核実験が実施されました。人類を滅亡させる究極の武器として核兵器が作られ、実験され、人類に恐怖と破壊をもたらしてきました。近代の人類史上これほど大きな影響を与えた発明はありません。

アメリカのホワイトハウスの前で行われた核実験反対のデモ、1994年
 

グリーンピースは、核実験への反対から生まれた環境団体です。創立以来、核実験反対は「グリーンピース・ストーリー」の一部です。私個人にとって、そして活動家としてのキャリアにおいても歩みの一部といえます。

ロンゲラップ島の女性たちに歓迎されるバニー・マクダーミッド

 

核実験が人類と環境に与える悲惨な影響を初めて目にしたのは、私が24歳のときです。1985年、核実験に反対するキャンペーンのために太平洋に向かって航海するグリーンピースの船「虹の戦士号」に、私は甲板員として乗船していました。私たちの最初の使命は、北太平洋のマーシャル諸島の一つであるロンゲラップ島の住民約360人を、アメリカが行った核実験による放射能汚染から避難させることでした。

10日間にわたって、女性、男性、老人から子供までの避難を支援しました。多くの人が放射線による被ばくの影響で苦しんでいました。彼らは、先祖代々住み続けてきた土地を離れなければなりませんでした。悲しいことに、彼らが愛してきた土地は島民に生きる糧を与えてはくれず、むしろ病気をもたらしていました。島民が負わされた悲劇と苦痛は彼らのせいではありません。誰が苦しむことになるのか、ほとんど考えもしなかった人々によってこのような悲惨な目に合わされたのです。

実際、島民は「人類のため、世界のすべての戦争を終わらせるため」に核兵器は必要だと言われていました。大量破壊兵器が安全と平和への手段であるという考えの裏にある愚かさは、権力者のあいだに今も残っています。太平洋での核実験はあまり知られていませんでしたが、ロンゲラップ島民の避難に関わった私たち全員は大きな影響を受けました。しかし、明らかに、核実験を行った当事者は、地球への暴力は人間への暴力であることを、まったく問題にしていなかったのです。

ロンゲラップ島での救出行動の後、私たちはニュージーランドに向かいました。「虹の戦士号」はフランス領ポリネシア、ムルロア環礁の東を航海し、フランス政府の核実験に抗議する小型船団を組んで指揮を取ることになっていたのです。しかし、私たちの計画は誰も予想できなかった形で変更を余儀なくされました。1985年7月10日、フランスの情報機関がフランス政府の命令を受けて、「虹の戦士号」に2発の爆弾を仕掛けたのです。爆発が起こって数分で「虹の戦士号」は沈みました。私たちの友人で同僚のフェルナンド・ぺレイラ(写真家)は、この爆発で死亡しました。

爆破されて沈没する「虹の戦士号」

 

「虹の戦士号」の船体は修復できないほど損傷を受け、ムルロア環礁に赴くことはできませんでした。しかし、その精神は生きていました。前よりももっと多くの船が平和船団に加わり、核実験に抗議するために太平洋を航海しました。新しい「虹の戦士号」のために募金が行われ、「虹の戦士号ll世」は太平洋を何度も航海し、ついに1996年にフランスの核実験は中止されました。

いま、時代は変わりました。反対運動に立ち上がり、様々な方法でたたかい続けた人々が歴史を変え、大規模核実験の実施はほぼなくなりました。核実験は「クリーン」で「安全」だと長年にわたって主張してきた政府は、もはやそのような嘘はつけなくなりました。

原発2基の建設承認に「ダイ・イン」の抗議をする人々、韓国・釜山、2016年

 

核実験の悲惨な歴史にまつわる詳細は、多くが隠されたままです。しかし、真実が現れつつもあります。フランス国防省の機密文書は、1960年代から1970年代に南太平洋で行われた核実験は、それまで認められていたよりもはるかに有害であったことを示しています。フランス領ポリネシアの全体にプルトニウムが降り注ぎました。最も人口が多いタヒチ島は、最大許容量の500倍の放射能にさらされました。

核実験の犠牲者が手にすることのできた正義は、耐え難いほど遅く、不完全でした。1990年代の初め、アメリカはようやくロンゲラップ島の人々に与えた被害を認め、長い法廷闘争の後にやっと補償金をいくらか支払うことに同意しました。核実験によって被害を受けた元軍人や市民に対して、フランス政府が補償する可能性を認めたのも(それも複雑なプロセスで、かつ限られた地域に対してのみ)、2010年になってからでした。核実験の犠牲者の多くはいまだに認定されずに苦しんでいます。


彼らの心に負ったトラウマと同じように、核実験による影響は消し去ることはできません。放射能による汚染は、今その地域に住んでいる人々に影響するばかりでなく、将来の世代にも影響します。放射能を効果的に除染できる技術はありません。ロンゲラップ島の人々の多くは、30年近く経っても、いまだに故郷に帰ることができません。

ロンゲラップ島民を避難させる「虹の戦士号」乗組員、1985年

 

しかし日々の暮らしが取り返しのつかないほど大きな被害を受けても、自らの悲劇を「核廃絶のためのたたかい」に変えて生きている人々に、私は大きな感銘を受けています。ビキニ核実験で被害を受けたロンゲラップ環礁のあるマーシャル諸島共和国は、9つの核保有国を相手取り、「核軍縮の義務を果たしていない」と国際司法裁判所に訴え出ました。日本では、広島と長崎の被爆者の方々が『ヒロシマ・ナガサキの被爆者が訴える核兵器廃絶国際署名』を開始しています。私たちは、彼らを孤立させてはいけません。


広島での原爆投下から60年、広島、2005年

 

世界中の核保有国は、複雑で急速に変化する世界の安全保障であるとして、核兵器の保有、開発、近代化を続けています。しかし、それは大きな間違いです。一方、核兵器反対の声を上げる国が増えています。昨年国連では核兵器禁止条約の確立を目指し、核軍縮作業部会を開催する決議案を賛成多数で採択しました。これは簡単な道のりではありませんが、一歩を踏み出したといえます。

大量破壊兵器を、小さな地球に住む私たちの安全保障にしてはいけません。安全保障たりうるのは、核兵器と核実験の廃絶です。そのシナリオを書けるのは、何百万もの人々の惜しみない勇気と貢献です。