東京電力の福島第一原子力発電所の事故が起きてから、今日で1,336日が経過しようとしています。

このあいだに、私たちは何を得て、何を失ったのでしょうか。

グリーンピース放射線測定チームは10/24~28日、福島市内、田村市都路、川内村、そして飯館村の放射線測定に赴き、私もこの調査チームに同行しました。
そして、今回の調査活動を通じて、この月日の中で失ったものの大きさを痛感させられました。


写真:福島市内で放射線調査を行うグリーンピースのスタッフ © Noriko Hayashi / Greenpeace

私にとって、飯館村を訪れるのは事故直後の2011年3月以来のことでした。

前回訪れた時は、事故直後の混乱と放射能汚染に対しての不安を抱える中でも、そこで過ごす人々の往来がある村でした(飯舘村が全村避難となるのは4月に入ってからで、当初は非常に高い放射線量にもかかわらず、住民避難は行われていませんでした)。

おじいさん、おばあさんや子供を連れた家族がスーパーマーケットを訪れ買い物をし、田畑で農作業をする農家さん、飯館村を横断する県道12号線を走る車。
普段通りの時間がながれ、美しい景色に包まれた中で、ごくあたりまえの日常であふれかえっていました。

「どんなに長い月日が経過して苦しい日々が続いていたとしても、その美しい景色が変わっているはずがない。」

そう信じこんでいました。

写真: グリーンピースは、原発事故発生直後に飯舘村に放射線調査を実施した 2011年3月撮影 © Christian Åslund / Greenpeace

しかし、その風景は一変していました。
買い物に訪れていたおじいさんやおばあさん、家族連れの姿は見当たらず、目に留まるのはマスクや手袋をした数多くの除染作業員の方々のみ。あのとき確かに営業していたスーパーマーケットの活気もなくなり、もぬけの殻になった村。

道路は草で埋まり、家屋も損傷が見られはじめ、土や草が詰め込まれた除染袋で埋まった、かつては美しい田畑であった場所。

年月を追うごとに破壊されていく村。
そんな印象が脳裏に焼き付きました。

写真:飯舘村にある除染廃棄物の一時保管場所。廃棄物を入れた黒い袋が延々と積み上げられている。2014年10月撮影 ©Greenpeace 

「東北に復興を」

東日本大震災以来、日本の各地で希望に満ちた、このような言葉が合言葉のように使われています。しかし、飯館村に住んでいた人たちにとって、これほど皮肉に満ちた言葉はないのではないかと思いました。

ここに住んでいた人たちは、いつ自分たちの故郷に安心して帰還できるのでしょうか。
自分たちの子供や孫にかつて自身が育った故郷を見せることできる日はいつなのでしょうか。
住む場所を追われた人々にとって、失った故郷への思いの強さは計り知れないものがあると思います。

飯舘村で酪農を営んでいた長谷川さん。仮設住宅での暮らしがいまでも続いています。

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このような状況を引き起こした責任はとても大きなものです。その責任は、政府と電力会社にあると思います。

しかし、政府と各電力会社は原発再稼働を急ぎ、同じ過ちを繰り返えそうとしています。

「もし、自分の故郷に二度と戻れなくなったら」

今こそ、一人一人が福島の現状に想いを寄せ、自分の身にも起きる可能性のあることとして、考えなければいけない時期がやってきています。

原発事故が起きてしまったら、お金による保証で解決できる問題はなにもありません。お金によって、自分たちの故郷を取り戻すことはできません。

今回の放射線調査活動を通じて、原発再稼働が議論される以前の問題として、事故の教訓に学び、事故によって苦しい生活を強いられている人々へしっかりした謝罪をする責任を、政府と電力会社はまず果たすべきだと強く感じました。

 

※今回の放射線調査結果については、10月30日に記者会見を行い(発表資料データシート)、川内原発の再稼働を判断しようとする鹿児島県庁にも翌31日に提出しました(プレスリリース)。


手記:宮地大祐(グリーンピース・ジャパン 2014年10月福島放射線調査チームメンバー)