海洋生態系問題担当の花岡です。

放射線調査チームの一員として、山形県米沢市に来ています。福島第一原発から約100kmの位置にあるこの町で、避難所となっている市営体育館を訪れました。

ここにいる方々は、地震や津波で家や家族を亡くし、目に見えない放射線に自分の土地を追われ、混沌の中で避難してきた方々です。被害の補償についても今後追起こりうるリスクについても、理解できる形での情報はいまだ提供されないまま、また、政府や東京電力から明確な方向性も提示されないまま、いつになるかわからない帰郷を待ちわびている方々です。

高い天井に守られた体育館は、周囲を気遣う人々の想いに溢れた、とても静かな空間でした。適度な距離を保ち几帳面に並んだ布団や暖房。丁寧に掃除がされてあるツルツルの床。きちんと分別されたゴミ箱。大きな窓から夕陽がさしこんでも塵一つ見えない空気。避難者の皆さんも、とても清潔な身だしなみでした。

声をかけると、皆さん穏やかに、快く、お話をしてくれました。

「危ない危ないとは言われ続けていたもんね。でもこんな風になってみないと、本当に危ないってわからないんだよね。本当に。もう原発はやっちゃあいけないよ」と、幼児に囲まれていたおばあちゃん。

どっしりと腰かける家族の大黒柱のお父さんは、こう話してくれました。「ガソリンが尽きるまで走ってきたけど、結局ここから先は行くあてもない。自主避難だし、こんな暮らしも長くはしていられない。いつまでもここにいても……と思って、帰る家もないのに戻った人もたくさんいるよ」

特に印象に残ったのが、暖房の周りにある椅子に座っていた72歳のおばあちゃん。「戦後の貧しさの中で幼少期を過ごした。何もないところからこれまで一生をかけて皆で築き上げてきたものが、この年になって、一瞬で木端微塵だよ」と振り返ります。続けて、少し離れたところに敷かれた布団におとなしく横になる孫を見ながら、「あの子は私が育てているんだけどね、大人になったとき、福島出身というだけで、仕事も結婚も難しくなってしまうかもしれないと思うと……」と将来への不安を打ち明けます。

おばあちゃんに事故の前のことを伺うと、「なんでもいるんだよ」と三陸沖の豊富な漁場について、誇らしげに話してくれました。漁師とのことです。「もう船も港もないから、帰ってもきっと漁はできない。漁をしても放射能で魚も売れないよ。今はコウナゴとかいいんだけどね。でも来週からは孫の学校も始まるし、帰るよ。漁じゃなくても、どうにかしてやっていくしかないね」と、東京で見るどんなおばあちゃんよりも、笑顔がすてきでした。

「希望の持てるメッセージが、政府や東京電力からいつかきっと来る。それまで踏ん張ってみせる。立て直してみせる」――その共通した強い想いが、優しさと生命力を絶やさないこの空間の秩序を保っている。そう感じました。