福島第一原発事故によって、長年暮らした飯舘村を離れた安齋徹さん。長期にわたる避難生活を余儀なくされた(©️Greenpeace、2020年11月撮影)

多くの人が不自由な暮らしを強いられた仮設住宅、住む人がいなくなり取り壊されようとしている古い家屋、無造作に山積みにされた放射能汚染土の入ったフレコンバッグ。2011年3月に起きた東京電力福島第一原発事故で、長年暮らしてきた福島県飯舘村の自宅を追われた安齋徹さん(73)が、避難生活を続ける中で撮りためた写真です。

20代の頃、まだフィルムカメラ全盛の時代から、安齋さんは趣味で写真を撮っていました。特に、美しい里山の風景や、山あいから上る朝日など、風景写真を撮るのが大好きだったといいます。

「プロのようにはいかないけれど、それでもシャッターチャンスは絶対に逃したくないんで、いつでもカメラを持ち歩いていたんです。重機を扱う作業現場にも持って行っていたので、大事なカメラを壊してしまうこともありました」

仕事でもなくただ趣味として、ふと心を引かれた景色を前に、気ままにシャッターを切る日々。その他愛もない日常が、ある日を境に突然失われました。

シャッターが切れない

安齋さんの自宅で放射線量を測定するグリーンピースの調査チーム。福島第一原発から約40キロ離れた飯舘村には、大量の放射性物質が飛散した(2017年10月撮影)

東日本大震災、そして直後に起こった東京電力福島第一原発事故。幸い安齋さん自身にはけがはありませんでした。しかし、震災直後、行方不明者の捜索活動に参加した際、地震で一変した街並みや、変わり果てた姿で建物や瓦礫の下から見つかる犠牲者を目の当たりにしました。

「うちの、うちのおばあちゃんを知りませんか」。必死で行方不明者を探す家族の声が、耳から離れませんでした。

「カメラはいつも持ち歩いていました。記録のために写真を撮っておくべきだということも十分分かっていたけれど、どうしてもシャッターが切れなかった」

その日から、以前のように写真を撮ることができなくなっていました。シャッターを切ろうとするたびに、救助活動のときに見た、壊れた街並みと家族を探す悲痛な呼び声が蘇り、指が止まりました。

事故から3カ月後の2011年6月、原発から35キロ離れた飯舘村の自宅から、福島市内に避難しました。当初はやがて戻れるだろうと思っていましたが、放射能汚染は想像以上に深刻で、その後7年以上にわたって仮設住宅での生活が続きました。設備の整っていない仮設住宅での暮らしでは、ストレスから体調を崩すこともあったといいます。もがき続ける日々の中で、写真を撮ることもなくなっていました。

老写真家に背中を押され

積み上げられた放射能汚染土の入ったフレコンバッグ(福島県浪江町、2019年10月撮影)

事故翌年の2012年12月、知り合いからの誘いで山口県を訪れ、原発事故とその後の生活について自らの体験を語る機会を得ました。その際、同県出身の報道写真家、故・福島菊次郎さんと出会うことになります。戦後、原爆の後遺症に苦しむ人たちの姿を記録しつづけ、さらにその後は、公害問題など多くの社会問題に鋭く切り込み、「反骨の報道写真家」と呼ばれた人でした。

「安齋さんも写真をやるんでしょう?」

そう福島さんに尋ねられ、「やりますが、下手なんです」と謙遜して答えました。常にカメラを持ち歩くほど好きだった写真も、震災後は思うように撮れなくなっている自分。「それに、今はどうしてもシャッターが切れないんです」。抑えていた気持ちが、思わずこぼれ出しました。

思いつめた様子で話す安齋さんに、当時91歳になっていた老写真家は、少し黙った後、ゆっくりと語りかけました。

「写真に上手いも下手もない。なんでもいいから撮りなさい。それが30年後、40年後に生きてくるんですよ」

その日を境に、安齋さんは再び写真を撮るようになりました。復興が進みきれいになった街並みも、住民が避難したまま戻れないふるさとも、自分の目で見たありのままの福島を、次々に写真に収めていきました。東京や福島、山口で写真展を開き、撮りためた写真を多くの人に見てもらう機会にも恵まれました。

「一度ちゃんと整理しないといけませんが、全部合わせたら4万枚くらいになるんじゃないかな。動画も撮っているんですよ」。そう話す口調に、迷いはありませんでした。

福島の姿を未来に

福島県飯舘村の安齋さんの自宅跡。長引く避難生活の中で維持が困難となり、2018年に取り壊した(©️Greenpeace、2020年11月撮影)

2018年、生まれて以来60年以上を過ごした飯舘村の自宅を取り壊しました。長い避難生活で荒れ果て、これ以上維持することもリフォームすることも難しいことから出した、苦渋の決断でした。解体の様子を写真に収めようとしましたが、作業員が嫌がるため、仕方なく離れた場所から望遠で自宅の最後の姿を写真に残したといいます。

「自宅を壊した後、また少し元気がなくなってしまって。でも、少しずつ写真を撮り始めているんです。暖かくなったら、いろいろ撮りに出かけようと思っています」

あの時かけられた「なんでもいいから撮りなさい」という言葉が、立ち止まりそうになる背中をそっと押し続けていました。

現在、安齋さんは伊達市内の中古住宅で生活しています。一見すると、事故前の平穏な生活が戻ってきたようにも見えます。しかし、少し車を走らせれば、いまだに自由に行き来できない多くの帰還困難区域が存在し、目に見えない高濃度の放射能が残り続けています。

事故でふるさとは一変し、家族と過ごした思い出の自宅も失いました。ただ元の生活に戻りたいだけなのに、それができない。安齋さんにとって、この10年はそういう時間でした。

「1枚の写真が世界を動かすといいます。50年後、100年後の人たちに何が起こったのかを知ってもらうためにも、自分が見た福島の姿を残せればと思うんです」

事故から10年が経ち、復興とともに風化も進んでいます。東日本大震災や福島第一原発事故がどんなものだったのか、そこに住む人たちがどんな思いをしたのか、これからそうしたことを知らない世代も増えていくことになります。福島の今を未来に伝える。そのために安齋さんはシャッターを切り続けます。

(了)

原発のない未来をつくるために

今の子どもたちが大人になった社会、次の世代が生きていく社会で、少しでも安全に暮らせるように、”どこかの誰か”がリスクを負うような不条理をなくすために、「原発なし」で二酸化炭素排出実質ゼロを達成することを、政府に求めます。ぜひ、以下のページでご署名をお願いします。