今年ももうすぐ、3月11日がめぐってきます。地震があって、津波がきて、原発事故が起きて、多くの人々が家を、家族を、友だちや親しい人を、暮らしを、故郷を、かけがえのないものを失ったあの日。

あの日から今日までを生きてきた、私たち自身と様々な方の記憶・経験を重ね合わせながら、これから作っていく未来を、改めて一緒に考えませんか。

今回は、避難指示区域のひとつだった浪江町から避難中の堀川さんご夫妻が、いったいそこで何が起きているのか、グリーンピースにお話ししてくださった体験をご紹介します。
震災前の浪江町の海岸で。(堀川さん提供)

「あなた方がふるさとを見捨てたら、誰がやるんですか」

浪江町の中心近くにあった堀川さんの自宅は、築50年。

2019年に、取り壊しになりました。

堀川文夫さん(以下文夫さん)「昭和42年に、父と母が建てました。父は大工の棟梁といっしょに、秋田や青森や木曽に材料を仕入れに行きました。私は一輪車を使って、隣の川から石を一輪車に毎日二台分、運ぶんです。基礎に使う石。あとは、柱を糠袋で磨くんです。だから自分たちで建てたって感覚があるんですね。

父が亡くなって私が引き継ぐことになったとき、古いし、壊して新しく建て直そうかとも思ったんですけど、内装だけをリフォームをして残したんですね、父と母の思いを。そういう家でした」

地震で半壊し、一家は県外に避難。住むことができなくなった自宅を、当初は遺構として残すつもりだったそうです。

堀川貴子さん(以下貴子さん)「お掃除もしません、全部このまま残しますって最初いってたんですけど、ご近所さんは帰るのに、堀川さんのところだけ除染してないっていわれて。

最初のころは拒否してた人が他にも結構いたんですけど、あんたんとこだけだよ除染してないの、帰る人もいるんだよっていわれて、しょうがなくて判子押したっていうのを聞いて」

文夫さん「除染よりも、優先されるべきものを考えてほしい。もっと有効なお金の使い方があるはずだって。

いま苦しんでる人いっぱいいるんだから、その人たちをまず助けることからやるべきだって思ってたんですね」

貴子さん「やっぱりご近所さんからいわれちゃったらね」

文夫さん「友だちからもいわれた。『そんな暇あったら(注:堀川さんは原発事故についての講演活動などの情報発信を行なっている)、こっちに戻ってきて復興の手伝いしたらどうだ』って」

貴子さん「除染手伝えってね」

文夫さん「そんな風にいわれた時はすごく傷つきました。ショックでした。

違うって。『これが俺のやり方、俺の復興だって思ってる』って言い返しましたけども。

それ以上はもうタブーです。その話はもうしない。

『どうだ元気か』

『元気だ、向こうはどうだ』

『いいね、あったかいね、こっちは寒いね、魚釣り行ってるか』

『行ってるよ』って、それでおしまい」

避難指示が解除になり、道路沿いに並べられていた膨大な量の除染廃棄物のバッグは市街地から運びだされ、高い塀で囲まれて「撮影禁止」の標識が掲示されました。

一部の住民は町に戻りましたが、人々のつながりは、元通りにはなりませんでした。

福島県浪江町。2017年10月撮影。

文夫さん「ほかのところに、小規模なコミュニティをいくつかつくりましょう。そういう小さい“浪江”で何十年か頑張って、ほんとうに安全になってから、みんなで一斉に帰還しましょうって、町に何遍も訴えてた人がいたんです。でもダメだった。

やっぱり、まとまられると困るんじゃないですか。町民がまとまって、一気に裁判になったら。

だから分断です。安全教育といっしょでね。大丈夫になってきます、安全になってきます、『あなた方がふるさとを見捨てたら、誰がやるんですか』って、これをいうんですよ」

プロフィールは「避難中」

避難先の地域の人々とのつながりも徐々に充実し、コミュニティに根を下ろし始めた実感もようやくわいてきたという堀川さんご夫妻。

それでも、プロフィールにはいまも「避難中」と書いています。

文夫さん「戻った人たちも、避難してる人たちも、放射能の問題は捉え方がみんなそれぞれ違う。

そこに住みたい、そこに住まなきゃなんないから、放射能を直接は感じないようにする、考えないようにする。

最初は不安だったと思う。ほんとは、もしかしたらいまでも不安なのかもしれない。

だけど、とくに福島では安全教育がすごいじゃないですか。有名な学者まで、テレビでもやってる。

とすると浪江で生きていくには、そういう風に考えるのがいちばん楽だろうなって。安全だと思いたい気持ちはわからないではない。だけど危ないんだっていうことをもっとわかってもらいたい。チェルノブイリの例に学んでもらいたい。日本でも、福島の事故の後、自分はどうすべきかって考えてほしい。

だって帰りたいですよ、それは帰りたいし、ふるさとで生きたいし、死にたい」

貴子さん「そんな話を、浪江ではできない」

解体は誰もが、「うちを一番最後にしてくれ」と

山にも海にも車でものの数分、山菜採りにきのこ採り、釣りは海でも川でも楽しめて、いつでも気軽に旬のものを自分で採って朝から食卓に並べることができた、浪江の町。

ここよりもいいところなんて考えられない、というくらい自然豊かで平和だったふるさとですが、堀川さんはもう戻ることはないといいます。

文夫さん「地震で壁に亀裂が入って、戸が倒れて。放射性物質がいっぱい入って来て、動物も、泥棒にも何度か入られました。除染をしたのは、3〜4年前」

昨年秋、堀川さんは浪江町の自宅の家財を処分しました。

事故から1ヶ月後に持ち出した位牌や宝物を除いて、ほぼすべての家財がフレコンバッグに入れられて、運ばれていきました。

子どものころから長い間、家族と暮らした家の思い出の品々が、放射性廃棄物になりました。

堀川さんの自宅の片付けに集まった東京電力職員。(堀川さん提供)

政府による被災家屋の解体が順次行われ、浪江に帰るたび、見覚えのあった近隣の住宅が一軒、また一軒と姿を消していくそうです。

文夫さん「(自宅の解体の)順番はおそらく来年度末ごろになるでしょう。まわってきたときに、『もっと後にまわしてくれ』ということは可能だそうです」

貴子さん「でもみんながね、いちばん後にしてくださいって、いってるんですって」

文夫さん「やっぱりね」

貴子さん「うちをいちばん最後にしてくれって、いったって。うちもいったって」

▶︎真実の「復興」を – 堀川文夫さん・貴子さん vol.2 

福島原発事故を経験した私たちが未来のためにできるのは、原発をなくし、事故を二度と繰り返さないこと。

原発なしで自然エネルギーを増やす政策を進めるよう、声を上げませんか?