楽しかった16年間を過ごした福島を離れて – 浅田正文さん・眞理子さん
この投稿を読むとわかること
今年ももうすぐ、3月11日がめぐってきます。地震があって、津波がきて、原発事故が起きて、多くの人々が家を、家族を、友だちや親しい人を、暮らしを、故郷を、かけがえのないものを失ったあの日。 あの日から今日までを生きてきた、私たち自身と様々な方の記憶・経験を重ね合わせながら、これから作っていく未来を、改めて一緒に考えませんか。 今回は、自給自足で暮らしていた福島県から石川県に避難中の浅田正文さん・眞理子さんご夫妻に伺ったお話をご紹介します。 |
楽しかった16年間を過ごした福島を離れて
もともと東京で区民農園を借りて、野菜づくりをしてたんです。
第二の人生は田舎で、時間に追われずのんびりした生活がしたくて。東京に近くて自分たちの手が届く場所が、福島の阿武隈山系の山の上でした。
1995年に移住したら隣の方が田圃や畑を貸してくれて、野菜もお米も自給自足の生活が始まりました。
自然農法でその土地の力で収穫できたものをいただく。
作物が小さいうちは、苗に陽が当たるように草を刈って、根元に置いておくんです。するとそこで草が発酵して自然に肥料になる。そして虫やカエルや小さい生きものがたくさんいる、命の賑わい豊かな畑になるんです。
薪でお風呂を焚いて、ゴミはコンポストで分解して、何でも自分の手足を動かして、お天気の日はこんなことしよう、雨だったらこんなことしよう。
16年、そんなふうに暮らしました。
2011年3月11日
私たちが住んでいた場所は福島第一原発から25km。
3月12日に1号機が爆発したとき、金沢の知人が逃げてこいと電話をかけてきてくれて、翌日には伝手を頼って金沢まで避難しました。
住宅支援で入居できた市営住宅の契約は半年だったけど、3号機も4号機も次々に爆発して、そんなに早く帰れる訳がないと思いました。
うちの畑のそばの杉林の土壌汚染は1平米あたり100万ベクレルです。そんなところに住めません。
帰れるものなら帰りたいけど、帰れるわけがない。
でもやっぱり帰りたい。
気持ちがふらふら揺れて、すごくつらかった。
事故は継続中
こんな思いはもう2度と誰にも味わってほしくないという思いでずっと暮らしています。
それで大飯原発(福井県)や志賀原発(石川県)の運転差止訴訟原告に参加しています。また、福島県等の避難者でグループをつくり、毎月通信を発行し、福島の現状を広く伝えています。依頼があれば、講演・スピーチも行なっています。
一方で、避難指示が解除されて帰還した人たちとの交流はなくなってしまいました。一時帰宅してもなるべく顔をあわせないようにしています。
それは気持ちがすれ違ってしまっているから、どんな顔で会えばいいのか、わからないから。
大飯原発再稼働差止訴訟判決に「国富とは豊かな国土とそこに国民が根をおろして生活していること。それを取り戻すことができないことが国富喪失である」とあります。
未だに緊急事態宣言発令中であり、年間被ばく許容線量を他県の20倍に緩めたダブルスタンダード。
このことを自由に口に出せない雰囲気。さらに汚染水放流、除染土再利用、等々、事故は継続中なのです。
事故対応には問題だらけと感じています。
福島原発事故を経験した私たちが未来のためにできるのは、原発をなくし、事故を二度と繰り返さないこと。 原発なしで自然エネルギーを増やす政策を進めるよう、声を上げませんか? |