原発建設を止めた日本の市民運動
原爆による被ばくを経験している地震の多い国。そんな日本が多数の原発を建設し、稼働させてしまっていることは苦しい現実です。しかし、実は日本には今ある原発の数よりも多い、原発を建てさせなかった計画地があります。今一度、原発の建設を止めた市民運動に目を向け、全国各地の反対運動の一部を紹介します。
50以上の町が原発建設計画をくいとめてきた
現在日本には、運転可能な原発が33基、もんじゅなどの高速増殖炉を含めた廃止および廃止措置中の原発が26基あります。33基の運転可能な原発のうち、関西電力の大飯3・4号機、高浜1・3・4号機、美浜3号機、九州電力の玄海3・4号機、川内1・2号機、四国電力の伊方3号機、合計の11基が稼働している状態です(2023年8月時点 ※2)。
多くの市民の「原発はいらない」という意志の表明が、原発事故後に多くの原発の廃炉を決定させました。それでも、強い危機感のために、稼働中、稼働可能な原発の数に忸怩たる思いを抱く人もいると思います。
しかし、実は日本には多くの原発を止めてきた市民運動の歴史があります。粘り強い市民運動の結果として、原発の建設を中止、断念させることに成功した地域は30カ所を超え、計画地点とされた段階で計画を撤回させたり、着工を食い止めた市町村を含めるとその数は50カ所以上にのぼるのです。
「原発お断り」に成功した町
数ある原発を退けた地域の中から、3つの場所を取り上げ、具体的にどのような動きがあったのかを見てみます。地域住民たちが、勉強会の開催、選挙や住民投票、身体を張った実力行使と、あらゆる方法を試み、権力に対抗していることがわかります。
高知県四万十町(当時窪川町)
現在の高知県四万十町、当時の窪川町では、1975年頃に四国電力による窪川原発の計画が浮上してから80年代の終わり頃まで、市民と電力会社の攻防が続きました。窪川町は、1982年に日本で初めて原発受け入れの可否を決める手段として住民投票条例の制定という画期的な対策をとった町です。
また、町の集会所などで学習会を重ね、徹底的な討論が行われてきたことが大きな力となり、原発推進を率先してきた町長が立地を断念、辞任したことで、1988年に原発との決別が確定的となりました。
三重県芦浜
1963年に、三重県度会郡南島町(現南伊勢町)と、紀勢町(現大紀町)にまたがる芦浜に、中部電力による芦浜原発の建設計画が浮上しました。それ以来、芦浜では37年にもわたり地域を分断する闘争が巻き起こります。皆が親戚のように仲睦まじく暮らしてきた小さな海岸沿いの町の住民たちは引き裂かれるようにして対立を強いられたのです。
芦浜では日本で初めてとなる漁民たちによる海上デモや、逮捕者を出した視察の阻止行動や調査受け入れをめぐる漁協総会に反対する2000人もの町民を集めた座り込みなど、文字通り身体を張る抵抗が繰り返されました。
そして、窪川町に続いて住民投票条例を制定させ、81万筆を集めた署名運動を決定打に、2000年に知事が計画白紙撤回を表明するに至ります。
新潟県巻町
1971年に、東北電力による巻原発計画が発表されます。町民は、1994年に町に対して住民投票を求め、拒否されるも原発反対団体で連帯し、1995年に自主管理による住民投票を実現させます。そして、その年の町議選では定数22人のうち、住民投票条例制定を公約した候補が12人当選を果たしました。
住民投票条例が可決されるも、実施しようとしない町長にリコール運動が勃発し、人口約3万人の巻町で1万人を超える署名が集まり町長は辞職。新町長に「住民投票を実行する会」の代表が当選します。新町長のもとでついに住民投票が実施され、61%が反対に票を投じました。
1999年に笹口町長が予定地を反対派住民に売却し、推進派はこれを違法だとして提訴しますが、最高裁が推進派の上告を受理せず、原発建設は事実上不可能となります(※3)。
原発は望まれてできるのか
建設を止めた地域に、力強い運動があったことは間違いありません。また一方で、原発建設は運動の他にも、計画地点の場所や、地域特有の政治、経済や産業の状況、年齢層など、運動以外のあらゆる要素が影響します。
例えば、都市から離れていたり、経済の基盤となる産業がなかったりすることは、建設を止める困難さに直結するのです。すでに原発を有する地域も、望んでいたというより、その困難さによって、生活や地域の存続と引き換えに土地を差し出す選択を迫られたといえます。
2023年8月に原発の使用済み核燃料を一時的に保管する中間貯蔵施設の建設計画が浮上した山口県上関町。中国電力が8月2日に建設に向けた調査の意向を発表し、まさに住民の抵抗が起きています※。
中電は、計画の発端は、原発建設計画が進まない中、上関町長からの財政難を打破する新たな振興策の要望であると説明しています。しかし、もともとあった上関原発の建設計画を見ても、中国電力の戦略はまさに過疎化や地理的条件、脆弱なインフラなどを狙ってのものでした。
当時投入された電源関係の交付金は、施設や設備の建設以外にも、高校のない上関町から、市外に通学する高校生のバス代の補助や、小中学生の医療費の補助など、暮らしに関わることに投入されました。
権力と資本力を使い、国全体で解決しなければならないはずの地方の問題につけ込むようなやり方は民主的とはいえません。
原発を止めるのは誰?
反核運動は、命を守るためのたたかいです。
「もしも今自分の住む地域に原発ができるなら?」
「実家や、友人の住む場所が原発建設計画地になったら?」
原発を建てさせないための努力を、地元の人々に引き受けさせたままではいられません。今も「核を受け入れるか受け入れないか」という問いを突きつけられながら反対運動を続ける人たちへの連帯が求められます。
日本社会を「原発はいらない」という強い意志で満たすことができたら、日本自体を「原発お断り」の場所に変えていけるはずです。