©Ryohei Kataoka/Greenpeace
©Ryohei Kataoka/Greenpeace

原発事故から12年。今年は福島にとって重要な年になります。原子力政策の大転換、汚染水の海洋放出、汚染土の再利用など、福島を取り巻く多くの課題が一気に動こうとしています。これまでグリーンピースの調査にご協力くださった方々を中心に、現在の状況を聞きました。原発事故を繰り返さないこと、事故の被害者を支え、エネルギー政策による被害者をこれ以上つくらないために、写真と共にお届けします。

飯舘村で生まれ育ち、地元で60年以上暮らしてきた安齋徹さん。原発事故以前は、林業や農業を営んでいました。原発事故後の2011年6月に飯舘村から避難し、福島県内の避難所や仮設住宅を経て、2019年に伊達市で中古住宅を購入して暮らしています。飯舘村の自宅は、2018年にやむなく解体しました。

▼この記事を読むとわかること

>厳しい農業再開
>たび重なる病
>子どもに懐かれた保養
>原発とは手を切るべき
>帰還者は約3割
>原発がいらない7つの理由
雪道を走る安齋さんの軽トラック ©Ryohei Kataoka/Greenpeace
雪道を走る安齋さんの軽トラック ©Ryohei Kataoka/Greenpeace

厳しい農業再開

今年は寒波で雪が多く、阿武隈山地に位置する飯舘村はすっかり雪景色です。

安齋さんの自宅の入口は、周辺の畑をイノシシや野生動物から守る柵で囲まれています。

雪の上の空間線量は毎時約0.3マイクロシーベルト。

20cmほど積もった雪を踏みしめて坂を上ると、自宅の跡地があります。

「このあたりが玄関だったかな」

安齋さんは飯舘村には帰らないと決め、自宅は4年半前に解体されました。

約3ヘクタールの畑があり、コンテナを倉庫にして農機具を保管しています。

農地を放置して荒らさないために、春から秋は除草作業をして大根や麦などを栽培していますが、除染で表土を剥がした農地は、土が瘦せてしまい、作物が十分に育ちません。

現在、農作物から放射性物質はほとんど検出されなくなりましたが、

「村に帰って本格的に農業を再開するのは難しい」

安齋さんは肩を落とします。

解体された自宅跡地にて ©Ryohei Kataoka/Greenpeace
解体された自宅跡地にて ©Ryohei Kataoka/Greenpeace

たび重なる病

安齋さんは12年間、たびたび体調不良に襲われてきました。

2011年3月末から5月末まで、相馬市で遺体の捜索をしていましたが、その後は飯舘村に帰ると下痢を繰り返しました。

同年6月に福島市に避難しましたが、飯舘村に通って村内のパトロールの仕事をしていました。

その時から、足のすねが火傷をしたようになり、皮膚が固くなって剥けるようになりました。12年経った今でも、白く皮が剥けるといいます。

2012年には、髪がバッサリと抜けました。

お風呂に入ったら突然髪の毛が抜けて、床が真っ黒になったのです。

その後は症状はおさまったそうですが、いまも毛が抜けやすい状態です。

2016年、山口県を訪れた際に、脳梗塞と心筋梗塞を発症。

カテーテルで脳のステント手術と、心臓の血管を膨らませる薬を飲んで、いずれも幸い症状は改善しましたが、いまも薬は欠かさずに飲んでいます。

安齋さんは被ばくとの因果関係を疑っていますが、確かなことはわかりません。

「原発事故が起きたあとに様々な症状が出たことは事実で、大人の健康影響については調べないという政府の姿勢はおかしい」と安齋さんはいいます。

2019年、伊達市に中古住宅を購入して移り住みましたが、ようやく落ち着いた頃に2021年、2022年の2回の地震で家が損壊しました。

多額の修理費用もかかり、ストレスで痩せてしまったと嘆きます。

安齋さんは原発事故後、不安定な生活になり、病気も重なって苦労してきました。

病気が放射線被ばくの影響ではないかと不安に苛まれ、夜もよく眠れず、頭に色々なことがよぎる日々が続いています。

モニタリングポストの場所を少し離れるだけで、手元の線量計の空間線量(毎時0.42マイクロシーベルト)は1.5倍以上も高い ©Ryohei Kataoka/Greenpeace
モニタリングポストの場所を少し離れるだけで、手元の線量計の空間線量(毎時0.42マイクロシーベルト)は1.5倍以上も高い ©Ryohei Kataoka/Greenpeace

子どもに懐かれた保養

2013年から19年まで、山口県祝島や三重県、沖縄県をはじめ各地の保養に子どもたちを引率する活動に参加しました。

小学3年生から6年生の子どもたちを1回に10数人連れて行きます。

子どもたちは、福島を出るときと、帰った時の顔が違いました。

「福島を出発するときは不安な顔をしているけど、保養を終えると元気になって、笑顔で帰宅するのを見て嬉しくなります」

安齋さんは子どもが好きで、毎回子どもに懐なつかれて離してもらえなかったと、嬉しそうに話します。

ある時、女の子が「のどに何かあるんだ」と訴えました。

調べると、甲状腺に石灰化した嚢胞ができていたのです。

他にも、2014年には甲状腺に異常がなかった子が、2017年には要観察となった子もいました。

「福島県では原発事故のことはタブーです。聞きたくない、話したくないという人が多いです。しかし、子どもや避難者の苦しみ、被害の状況を世界に伝えていきたいと思っています」

原発事故を忘れないようにするためには、交流して話していかないといけないといいます。

自宅跡地の周辺の畑 ©Ryohei Kataoka/Greenpeace
自宅跡地の周辺の畑 ©Ryohei Kataoka/Greenpeace

原発とは手を切るべき

「これだけの事故が起きているのに、原発再稼働、60年超運転、原発新設など無謀です。原発が環境にやさしい、温暖化にやさしいというのは嘘だと思う」

安齋さんは憤ります。

政府は、原発の危険性についての説明が不十分だと指摘します。

「事故が起きるとどうなるか、という説明がほとんどありません。原発事故は100年経っても終わらないと思います。原発とは手を切るべきです」

原発事故後の厳しい現実を語る安齋さん ©Ryohei Kataoka/Greenpeace
原発事故後の厳しい現実を語る安齋さん ©Ryohei Kataoka/Greenpeace

帰還者は約3割

2011年4月から避難指示が出ていた飯舘村は、2017年3月に帰還困難区域を除く避難指示が解除されました。

大規模な除染がおこなわれた飯舘村では、除染廃棄物を詰め込んだフレコンバッグ約230万個以上が、村内の仮置場に積み上げられていました。

現在はフレコンバッグの大半が、中間貯蔵施設へ搬入を終えています。

帰還困難区域に指定された長泥地区は、特定復興再生拠点区域(復興拠点)の除染が終了したとして、今年5月頃に避難指示が解除される見込みです。

政府は、復興拠点から外れた帰還困難区域の除染についても、今後本格化させる方針です。復興拠点外の帰還困難区域について、政府は2020年代に希望者の帰還を進めるとしています。

一方で飯舘村に住んでいた人の多くは、避難先に生活の基盤を移しており、2017年以降、実際に帰還した人は村民全体の約3割にとどまっています(2023年1月時点)。

夕暮れの飯舘村、灯がともる住宅はわずか ©Ryohei Kataoka/Greenpeace
夕暮れの飯舘村、灯がともる住宅はわずか ©Ryohei Kataoka/Greenpeace

–取材を終えて
福島原発事故の健康影響は子どもだけではなく、大人も健康影響が出ているはずですが、原発事故との関連性は十分調査されず、因果関係は認められていません。 安齋さんのように、がんに限らず多くの疾患に見舞われても、何の補償もない現実をあらためて突き付けられました。

原発がいらない7つの理由

理由7:原発は不安定な電源
原発単体では火力発電と比べればCO2排出量が少ないのですが、既存の原発は約1年ごとに定期点検のため数ヵ月程度運転を停止するほか、事故、不祥事、老朽化、自然災害などで計画通りの運転ができないことがあります。原発全体の設備利用率は約20%程度にとどまっています。事故や不祥事による停止は予見が難しく、原発は大規模な発電所のため、停止すれば影響は非常に広範囲に及びます。またいつ復旧できるかもわかりません(福島原発事故後、電力会社や政府の原発稼働見込みははずれ続けています)。そのため、原発が運転できなくなったときに備えてバックアップのための発電設備を常に用意しておく必要があります。原発のバックアップには、他の原発か、同じように大規模集中型の火力発電所が馴染みやすいため、不安定な電源である原発を使い続けようとすることは、必然的に火力発電所にも頼り続けることになります。原発や火力発電は段階的に止めていく方針を明確にし、分散型の再エネを持続可能な形で増やすことでこのジレンマから脱出することができます。


(理由1〜7を他のインタビューで紹介しています)

(文・写真 片岡遼平)

続けて読む

https://www.greenpeace.org/japan/explore/nuclear/fukushima12years/