訃報:グリーンピースの創設者デイビッド・マックダガード氏、逝去
グリーンピースの創設者の一人で、名誉理事長のデイビッド・マックダガード氏が3月23日、イタリアの自宅近くで自動車事故のため死亡した。
「私たちは、デイビッドの訃報の知らせを聞き、とてもショックをうけています。彼持ち前の力強さなくして、現在のグリーンピースはありえないと思います」
(グリーンピース・インターナショナル事務局長代行ガード・レイポルド)
デイビッドは1972年、南太平洋のモルロア環礁においてグリーンピースが最初に行ったフランス核実験に対する抗議行動の中心的役割を担っていた。抗議行動は、その翌年も行われ、ついには大気圏での核実験を中止させるに至った。核実験を中止させるというデイビッドの決意が、このような成功を治める大きな部分を占めていた。
また彼は商業捕鯨の中止と南極海のサンクチュアリ創設にも大きな成果を残した。また鉱物資源の商業的開発から南極を保護するという仕事は、おそらく最も偉大な業績のひとつである。
「グリーンピースは、彼の強い個性なくしては考えられない。彼は、誰もが不可能だと思っていた、旧ソビエト連邦や東ヨーロッパに事務所を開き、グリーンピースを今日ある国際的な圧力団体まで作り上げた。彼の死は、グリーンピースにとってだけでなく、世界の環境保護運動にとっても、大きな損失であることは間違いない」
(グリーンピース・インターナショナル事務局長代行ガード・レイポルド)
デイビッド・フレーザー・マックダガード (1932-2001)
1932年6月24日、カナダ、バンクーバー生まれ。
建設業に20年携わり、60年代に米国へ移住し、土建業と土地開発業で成功を治める。
彼の会社所有のリゾート・ロッジが爆発事故にあい、従業員に重傷を負わせたことがきっかけで、ビジネスから手を引き、しばらく太平洋をセーリングするなどしていた。
1971年、フランスが太平洋で核実験を行うことに激怒し、12.6mのヨットに「グリーンピースIII」と名付け、モルロア環礁まで航海した。
1977年、ヨーロッパ12ケ国以上に事務所を設立し、グリーンピースを組織化する。
1979年、グリーンピース・インターナショナルとして、彼を理事長とする世界的な組織化が加速する。
1975年~91年:組織の前線に立ち、捕鯨問題、核廃棄物の海洋投棄の阻止、有害廃棄物の生産阻止、鉱物資源開発からの南極保護など数多くのキャンペーン活動を率いた。
また本の出版なども手がけた。オナシス賞、クラスキー賞、国連環境計画のグローバル500賞など世界的な環境の賞を受賞した。
1991年9月:グリーンピース・インターナショナルの理事長から引退し、イタリアの農場に移り住んだ。有機栽培のオリーブを育てながら、独自の財団で環境保護の活動を続けていた。
2001年3月23日:イタリアの自宅近くで自動車事故のため死亡。
「私たちは、デイビッドの訃報の知らせを聞き、とてもショックをうけています。彼持ち前の力強さなくして、現在のグリーンピースはありえないと思います」
(グリーンピース・インターナショナル事務局長代行ガード・レイポルド)
デイビッドは1972年、南太平洋のモルロア環礁においてグリーンピースが最初に行ったフランス核実験に対する抗議行動の中心的役割を担っていた。抗議行動は、その翌年も行われ、ついには大気圏での核実験を中止させるに至った。核実験を中止させるというデイビッドの決意が、このような成功を治める大きな部分を占めていた。
また彼は商業捕鯨の中止と南極海のサンクチュアリ創設にも大きな成果を残した。また鉱物資源の商業的開発から南極を保護するという仕事は、おそらく最も偉大な業績のひとつである。
「グリーンピースは、彼の強い個性なくしては考えられない。彼は、誰もが不可能だと思っていた、旧ソビエト連邦や東ヨーロッパに事務所を開き、グリーンピースを今日ある国際的な圧力団体まで作り上げた。彼の死は、グリーンピースにとってだけでなく、世界の環境保護運動にとっても、大きな損失であることは間違いない」
(グリーンピース・インターナショナル事務局長代行ガード・レイポルド)
デイビッド・フレーザー・マックダガード (1932-2001)
1932年6月24日、カナダ、バンクーバー生まれ。
建設業に20年携わり、60年代に米国へ移住し、土建業と土地開発業で成功を治める。
彼の会社所有のリゾート・ロッジが爆発事故にあい、従業員に重傷を負わせたことがきっかけで、ビジネスから手を引き、しばらく太平洋をセーリングするなどしていた。
1971年、フランスが太平洋で核実験を行うことに激怒し、12.6mのヨットに「グリーンピースIII」と名付け、モルロア環礁まで航海した。
1977年、ヨーロッパ12ケ国以上に事務所を設立し、グリーンピースを組織化する。
1979年、グリーンピース・インターナショナルとして、彼を理事長とする世界的な組織化が加速する。
1975年~91年:組織の前線に立ち、捕鯨問題、核廃棄物の海洋投棄の阻止、有害廃棄物の生産阻止、鉱物資源開発からの南極保護など数多くのキャンペーン活動を率いた。
また本の出版なども手がけた。オナシス賞、クラスキー賞、国連環境計画のグローバル500賞など世界的な環境の賞を受賞した。
1991年9月:グリーンピース・インターナショナルの理事長から引退し、イタリアの農場に移り住んだ。有機栽培のオリーブを育てながら、独自の財団で環境保護の活動を続けていた。
2001年3月23日:イタリアの自宅近くで自動車事故のため死亡。