「証拠のないことは、ないことの証拠ではない」─トリチウムの生物への影響:ティモシー・ムソー教授の論文レビュー
この投稿を読むとわかること
政府と東京電力(以下東電)は、東電福島第一原発敷地内に貯留されている「多核種除去設備等処理水(ALPS処理水)」=汚染水を今年夏〜秋ごろから海に放出するとしています。
この汚染水に含まれる放射性物質のトリチウムについて、政府と東電は人体に及ぼす影響が極めて小さいという安全キャンペーンをおこなっています。
これに対して、米国サウスカロライナ大学生物学科のティモシー・ムソー教授は、トリチウムが人体のがん発生に及ぼす影響を体系的に調べた研究はなく、生態系に及ぼす影響調査は不足していると主張しています。
「科学的に安全」とは?
みなさんは、「科学的に安全」と聞いて、どんなことを想像しますか?
“研究者・科学者によって証明された安全性“と思う人が多いのではないでしょうか。
ところが、実はこの言葉にはまやかしがあるのです。
自然科学系の研究者は、基本的には事実に基づき、実験や研究の成果を論文にして発表します。
そこには「安全(safety)」とは書かれていないのです。
同様に、「危険(dangerous)」とも書かれていません。
では何が書かれているのでしょうか?
その例として、「ある部分までは安全だが、ある部分は危険かもしれない」というように書かれています。
これは、科学論文を書く際に、最も基本的な決まりです。
科学は、絶対の安全(もしくは危険)は保証しません。
科学に基づいて安全か危険かを決めるのは、私たち社会の側なのです。
さて、国と東電は「多核種除去設備等処理水(ALPS処理水)」=汚染水について、「科学的に安全」と強調しています。
これは本当なのでしょうか?
生物学的影響をもたらすトリチウム
2023年4月、ティモシ―・ムソー教授は、トリチウムに関連する科学文献約70万件を調査し、トリチウムが人体などに及ぼす生物学的影響を扱った約250件の研究を分析して、文献レビューをまとめました。
分析の結果、大部分の論文は、トリチウムによる被ばく、特に内部被ばくがDNAの損傷、生理機能と発達の障害、生殖能力と寿命の低下、ガンなどの病気のリスク上昇といった、重大な影響をもたらす可能性を示していました。
多くの論文が、DNAの一本鎖および二本鎖切断、優性致死突然変異の増加、あらゆる種類の染色体異常、遺伝的組換えの誘発などを報告していました。
トリチウムは遺伝毒性と発がん性を有しており、生殖系にも生物学的な影響を及ぼす恐れがあるとみられています。
また、トリチウムの生物学的効果比(RBE)*1は、セシウムより2倍~6倍高いことが多くの論文で確認されました。
トリチウムの高いRBEは、DNAのクラスター損傷*2を増加させます。
トリチウムは普通の水素原子の代わりに水分子に組み込まれ、体内にも容易に入ります。
生物体内に入れば、セシウムなどガンマ線核種の倍以上も危険ということです。
トリチウムがベータ線放出核種で「弱い放射性物質」という考え方は、外部被ばくにのみ適用されるものです。
トリチウムが摂取され有機物に取り込まれて、有機結合型トリチウム(OBT)として濃縮された場合、内部被ばくはさらに大きくなります。
トリチウムが低いエネルギーを放出することは、必ずしも影響が小さいことを意味しないのです。
少なくとも科学的には、トリチウムが自然界や生態系、人体に影響がないとは、どうしてもいいきれません。
国や東電が主張し喧伝している「科学的に安全」とは、実は「科学的に」ではなく、科学論文の「安全かもしれない」という一方的な結果だけを集めて、国と東電が「恣意的に」主張しているだけにすぎないのです。
トリチウムの研究論文数は少ない
ムソー教授のレビューでは、次のように述べられています。
発がん性があることが知られている他の物質についての研究論文数は、アスベストが19万7,000件、ラドンが9万6,700件、アクリルアミドが31万3,000件、ビスフェノールAが8万7,000件でした。
これに対して、トリチウムの発がん性関連の研究は、わずか14件しか見つかりませんでした。
その14件も、マウスなど実験動物を用いたもので、人に対するトリチウムの発がんリスクを調べた研究はありませんでした。
原発の近くで暮らす子どもたちの白血病率が上昇しているという解析は、イアン・フェアリー氏などによって報告されていますが、トリチウムの被ばくと発がんとの関係を直接検証するような研究はほとんどありません。
トリチウムとがんに関する現在の知識は、十数件の実験的研究と、ほんの一握りの疫学的研究があるだけです。
すなわち、トリチウムががんを引き起こすことはない、と主張する科学的根拠はないということです。
また、物質の毒性に関する研究論文は、水銀7,986件、鉛86,406件、ヒ素9,208件、ベンゼン3,215件が報告されていますが、トリチウムに関するものは144件しかありませんでした。
この結果から、トリチウムが潜在的に重要な発がん性物質であることが予想されるにもかかわらず、低線量にさらされた集団のリスクと危険性を評価するための情報が圧倒的に不十分だと結論付けています。
ムソー教授は、カール・セーガン氏の「証拠のないことは、ないことの証拠ではない」を引用しています。
トリチウムの生物学的な影響に関する研究が極めて少ないのは、研究資金が投入されていないことを反映しているといえるでしょう。
正常に稼働している原発から排出されている最も多い放射性物質がトリチウムです。
原発の利用を推進するために、意図的に研究されてこなかったとも考えられます。
少なくとも科学的見地においては、廃炉作業中に発生している汚染水を今のままの方法で海洋放出しても、自然界や生態系、人体に影響はないとは、どうしてもいいきれないのです。
トリチウムの生物への影響:ティモシー・ムソー教授の論文レビュー原文(英語)
*1生物学的効果比(RBE):放射線の種類やエネルギーの違いにより生物に与える効果の差
*2DNAクラスター損傷:DNA分子上の10 nm程度のごく狭い領域(DNAの1~2らせんピッチ)に一本鎖切断や塩基損傷が複数個生じたもの。特に、1nm以内に複数個の損傷が生じると修復効率が極端に減少する。