東京電力福島第一原発事故からまもなく11年。
福島県からの避難者数は2.7万人、全国には3.9万人が全国47都道府県の915の市区町村に避難しているとされています(いずれも2022年1月12日現在、復興庁まとめ)。しかし、福島県の集計と市区町村の集計の不一致や、行政がまちがって避難者登録を消去した例などがあり、正確な避難者数はつかめなくなっています。

事故はいまも現在進行形で続いています。
そのことをお伝えしたくて、避難を続けている方々にこれまで伺ったお話を、改めてご紹介します。
今回は、グリーンピースといっしょに国連人権理事会で被害者の現状を訴えるスピーチをした森松明希子さんです。
(記事中の情報はすべて2018年当時のものです)

東京電力福島第一原発事故当時、生まれたばかりの乳児だった森松明希子さんの長女は、もう小学生になりました。福島県を出てからこの7年間、お父さんといっしょに暮らしたことがありません。
3歳だった長男はお父さんっ子。月に一度、避難中の家族に会いに来たお父さんが福島県に帰るたび、寂しさと心細さで何度涙で枕を濡らしたかしれない7年間でした。

この3月、森松さんはスイス・ジュネーブで国連人権理事会の舞台に立つ決心をしました。

森松さんはいわゆる「自主避難者」。避難指示区域外からの「自主避難者」に対する唯一の支援だった住宅支援が打ち切られ、今、家賃を払えない「自主避難者」に立ち退き訴訟まで起きています。

グリーンピースは2017年秋、国連人権理事会加盟国に原発事故被害者の方といっしょに、被害者が受け続けているこうした人権侵害の実態を訴えました。署名や寄付で賛同してくださった多くの方々が、このプロジェクトを後押ししてくれました。

その後、ドイツ・オーストリア・ポルトガル・メキシコから是正勧告が出されました。グリーンピースは日本政府にこれら勧告の受け入れを求めています。
受け入れるかどうかが表明されるそのとき、各国代表の前で、グリーンピースとともに直接現状を語ることになった森松さんが、なぜそうしたいと考えたのかを、ひとりでも多くの方に知っていただきたいと思います。

2011年、福島県内の保育園

焦りと不安と得体のしれない恐怖の中で

森松さんが自主避難を決めたのは、震災から2カ月後のゴールデンウィーク。
それまでは、福島県内で生活再建を図ろうとしていました。

しかし当時住んでいた中通りと呼ばれる地域には避難指示も出されていないにもかかわらず、幼稚園からは園児全員に使い捨てマスクが配布され、長袖長ズボンを着用するようにと指示されていました。近所の小・中学生は徒歩圏内であっても通学は自家用車。無用の外出は一歩も許されず、もちろん幼稚園でも自宅周辺でも外遊びは出来ません。

週末には家族総出で高速をとばして山形県や新潟県まで子どもを遊ばせにいく。水道水からも生鮮食料品からも放射性物質が検出される。洗濯物もふとんも屋外には干せませんでした。

何をするにもまず「放射能が子どもに与えるかもしれない影響」を考え、すべてに細かく注意を払わなくてはなりません。

何が正解なのか、誰も教えてはくれない。

このままここに住んでいていいのかもわからない、焦りと不安と、得体のしれない恐怖。

近所でも幼稚園でも、ひと組、またひと組と福島県を去っていく家族が相次ぐ中、連休を利用して生活環境を整え直すつもりだった森松さんに、学生時代まで過ごした関西地方に子どもたちを連れて行ってほしいと最初に提案したのは、子どもたちのお父さんでした。

そこで彼女が目にしたのは、福島県内ではまったく報道されていなかった放射能汚染の危険性を紹介するメディア。

放射能に対して感受性の強い子どもたちの将来を守るにはどうしたらいいのか。

彼らを守れるのは親である自分だけ。

決断のときでした。

グリーンピースの放射能調査。2011年、福島県の幼稚園で。

子どもたちを父親から引き離してしまった

関西地方に住む親族や友人の強い勧めもあり、福島県内での仕事を続ける夫との合意のもとに、母子避難を決めた森松さんを待っていたのは、二重生活から生じる経済的負担をはじめとする様々な困難。

森松さん一家が暮らしていた地域には、避難指示が出されませんでした。地震で損壊した自宅の代わりに借りた賃貸住宅と、大阪で母子が暮らすために借りた家と、賃料や公共料金はそれぞれ別に支払う必要があります(※自主避難者への住宅支援は2017年3月に終了。森松さんは入居期限が短期間だった公営住宅を早期に退居していたためその後の住宅提供が受けられず、避難者数にもカウントされることなく、完全に自力で避難生活を続けざるを得ない)。

父親が幼い子どもたちに会いにくるにも、高額な交通費がかさみます。

ほとんど父親に会えないことが、子どもたちの心の発達にどんな影響があるのか。

かわいい盛りの子どもたちの成長を見守ることができない父親は、どんな思いで暮らしているのか。

家族が別れてまで暮らさなくてはならない避難は、本当に正しかったのか。

苦悩する森松さんでしたが、一回でも多く父親と子どもたちを会わせるために、避難先での就職を決意します。

ところがまだ当時1歳の長女を預ける方法が、避難先にはありませんでした。

自治体から子どもたちへの公的支援や健康調査等に関する情報が届かなくなるおそれがあるため、自主避難中の被害者は不用意に転出届を出すことができません。このために保育所などの住民サービスを避難先で円滑に受けられませんでした。
結果的に待機児童になることはできたものの、保育料も世帯収入に応じて決められるため、二重生活の足しにと働きはじめた森松さん自身の収入が世帯収入に合算され、かなりの高額になってしまいました。寡婦ではないため、母子家庭への補助も受けることができません。

2011年5月、福島県にて

最悪の状況での最善の選択

森松さんのように、避難指示が出されなかった地域から避難した住民は、原発事故被害者全体の数からみれば少数派です。まして避難指示が出された地域の被害者が暮らす仮設住宅さえ建てられるような土地からの避難に、後ろめたさも葛藤もあったといいます。

でも誰も、好きこのんで今の生活を捨てて避難するわけがありません。

森松さんの夫は、家族と離れてでも福島県内での仕事を続けることを選びました。

避難してもしなくても、最悪の状況下での最善の選択として、被害者それぞれの決断は尊重されるべきです。

不安を声にすることも、おかしいと感じたことを指摘することも、否定されるべきではありません。

それを、目をつぶって、口をつぐんで、忘れたふりをすることが、事実上強要されています。

いちばんの被害者は、誰でもない「子ども」たちです。

放射線被ばくに対して最もぜい弱な子どもたちの「健康に関する権利」が、事故から7年も経過したというのに、誰の子どもにも等しく与えられているでしょうか?

ただ、わが子といっしょに、ふつうの生活がしたい。

子どもたちに、1分でも1秒でも長く健康に生きてほしい。

そう切望するのは、親として当たり前の願いです。

その思いさえ無視されているのが、現状です。

森松明希子さん(2021年撮影)©️ Greenpeace / Kosuke Okahara

原発事故被害者の人権をまもって

被ばくを避け、健康を守る権利が、避難をするしないに関わらず侵害され続けています。

避難したいと思う人が、等しく、被ばくを避ける権利、つまり避難の権利が認められているでしょうか?

避難の権利を認めず、医療支援も情報提供もないまま、住宅提供を打ちきり、経済的圧迫によって被害者に事実上帰還を迫る政策は、森松さん一家をはじめとする原発事故被害者に対する人権侵害です。

もしもあなたに同じ事が起こったとき、あなたなら何を守りますか?

何を最も大切にしたいと思いますか?

人の命や健康をまもる権利は、生まれたての赤ん坊から明日で寿命を閉じるというお年寄りに至るまで、ひとりひとりに与えられた基本的人権です。


森松さんは、現在も子どもたちといっしょに避難中です。

グリーンピースの活動は、事故直後から始めた現地での放射能調査活動の結果から導き出された科学的根拠に基づいています。
調査活動も、事故の影響を受けている方々の人権保護活動も、これからも続いていきます。

二度と事故のない、原発のない未来のために。
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